2019年3月2日土曜日

自分の過去から学ぶ、自分の課題についての考察

この一週間、今までのクライミング人生を振り返り、改善点がいろいろと見えたので、自分メモとして記録。

まずは自分を振り返る重要な出来事を振り返ってみる。

①大学4年生の頃に起こした、学科の友人(女性)と奈良の前鬼川本谷での沢登り中に2段10メートルの滝の2段目、フリーソロ中における滑落→釜に巻かれる→奇跡的に浮いてくる→怖くなって同ルート下降で敗退。という死亡事故未遂があった。

前段階として、フォローでは谷川の沢などの3級くらいまでの沢を20本くらい登ったことがあった。
自分で企画した沢登りは他に、ナルミズ沢、シレイ沢などでリーダー経験を積み挑んだ。
ちなみにこのあと赤谷川本谷に行く計画をしていた(笑)(行っていたら絶対命はなかったと思う)

実際リーダーで行きはじめて、ロープやギアはただ持っているだけで、使い方がわからないことはすぐ気づいていた。
また読図もあまりできず遭難しかけながらも何となく無事に帰ってこれたので、何となく辞められなかった。
上記の件を受けて、やはりロープが使えないと危ないのではないかと、自分は本気で思い友人とリードジムに行く話し合いをしたが、賛同してもらえず、沢登りを企画するのが怖くなり、その友人とはだんだん疎遠になった。
結局自分は沢登りはフォローであり、フリークライミングはジムボルダラーである状態に戻った。

②大学4年生の冬、八ヶ岳の阿弥陀南陵にフォローで行ったとき、はじめてリードが見えなくなる距離でロープを使った。リードの操作がよくわからなかったので、いつビレイを解除していいのか、登り始めていいのか解らずフリーズ。そのころからフォローであること=安全な状態でもないことに薄々気づいていた。
しかし、その後も毎週八ヶ岳の初級バリエーションルートに通い、ついに硫黄岳周辺で遭難しかけ、肌が黒ずむ凍傷になり、手足の指のしびれが数か月残った。
その件をきっかけに、自分がリスクコントロール全くできない場所に行くのは、心底危険だと思い山のフォローを辞め、当時のパートナーに頼み込んでマルチピッチの練習を広沢寺で始めた。そこで出会った方に危ないと注意され、その方が代表を務める山岳会に入った。

③毎週のようにマルチピッチの練習をする為、広沢寺や越沢に通い、そのうちセレクションなどにも連れて行ってもらった。そこでクラックルートの登れなさに絶望し、マルチピッチ自体もオーバーワークということに気づく。山岳会からも距離を置き、自分で始められそうな外岩をやろうと思い、ジムスタッフ仲間と御嶽に行くようになった。そのうちにスタートから3手しか進めない忍者返しに通うことがライフワークとなり、何となく毎週御嶽に通っていた。

④御嶽通いが板についてきたころ探検部の先輩から、沢登りがやりたいという探検部女の子を複数人紹介してもらい、ジムのリード(自分の中では基礎)から始めたいという強い希望を飲んでくれたKちゃんとロックランズに通うようになった。ジムに通っているひとの見よう見まねでリードとビレイを覚え、毎週通っていたら、5.11前半がレッドポイントできるようになった。(常連さんにはリードもビレイも注意されていたが意味があんまり解らなかった)

そしてジムで自信をつけたので、奥多摩の岩場に通うようになり、全ピンテンションスタイルで5.10台の課題をレッドポイントし始めた。しかしスリップフォールしグランドフォールしそうになったり、トラバースルートの回収等で思いっきり振られ回収中岩に激突したりと、今考えるとまだこの活動もかなり危なっかしかったと思う。
そしてKちゃんと一緒にタイのプラナンに行き、終了点が全部ラッペルリングということで、はじめて「イラストクライミング」で読んだ結び替えという技術を使いこなせたと喜ぶ。(当時たくさんのクライミングの技術書を読んでいたが、ほとんど意味不明だった)
しかし、タイでも30m飛び降り回収や土砂降りの中の命がけのトップアウトなど、危なかったと鮮明に思い当たる事態が多数おき、それをきっかけに5.8~5.10aしか触らない方が安全であるというKちゃんの意見に概ね従ったが、違和感を感じI登山塾日誌にたどり着き読み始める。そして帰国までにはすべての記事を読み、師匠に頼み込んでI塾参加に至る。

⑤その後はSNSでやりとりしたひととボルトルートに行くようになる。
そのひとにいつも危ない死ぬぞと言われ、自分でもなんとなくそう思っていたが理由はよくわからなかった。彼が登る5.12aくらいのルートを一緒にトライし、ある日大フォールし岩に激突。足の脛を打ち脂肪層がえぐれるまでそのトライスタイルは続いた。(その後はまた、テンションレッドポイントスタイルに戻った)
その傍らI塾ではクラックを習っていたので、当時一緒によく講習を受けていた方々と、その冬から城ケ崎に行くようになる。そして毎度ただトラブルだけを起こしクライミングどころじゃない日々が続く。(マザークラックでの事故未遂もこの時期)

またマルチピッチ講習に進むと、リスクコントロールやメンタルコントロールできないという絶望的な挫折を味わい、オンサイトトライとメンタルコントロールの重要性を痛感する。しかし上記を相当意識して取り組んだ結果、その年の秋にはボルトルートの5.12aをマスターオンサイト、マルチピッチリード講習も卒業。

卒業後は師匠とクラック遠征に行ったり、KMTさんと瑞牆を徘徊したり、IJC♡の活動を始めたりと普通のクライマーになったような気がしていた。
でもいま考えてみると、クライミングの楽しさと、本気トライばかりに注目していて、やはりリスクコントロールやメンタルコントロールに対する興味は上記2点よりは薄かったと思う。
また自分にとっては目の前の小さな完登や、依存的関係ではなく、いろいろなクライマーと登ることができるようになったことが最大の喜びであり、クライミングにおける楽しさと感じていたが、それも今考えればすこしおかしな話ともいえる。

まずは自分の目標や目的があってこそのパートナー探しであって、IJC♡の活動が本格化しはじめてからは、メンバーと一緒に登ることが楽しすぎて、メンバーに合わせて自分も行動し、なにか困っていたら助けてあげたいと思っている節もあった。気が付けば、クライミング=遊びという感覚となっていて、緊張感が薄れてきていることに対することにも無頓着だった。

そもそも自分は、普通の人よりも考えが甘く、安全意識も甘い人間だったのだから、常に日々それを意識して生きていなければいけなかったのだ。

様々なことを振り返って本物のクライマーに成る為の今思いつく範囲の小さな目標は、

・ジムであっても気軽に考えない。常に危機意識と緊張感をもって取り組む
・岩場に行く前のイメージトレーニングを欠かさず行う(最近甘かった)
・ロープの持ち運び方などのだらしなさを改善する
・どんな大きな車でも長距離でも集中力を切らさず運転できるようになること
・自分のちょっとした気がかりなことをスルーせず自分の中で改善策を考える

などである。
上記が安定的にできるようになるだけでも劇的に良い方に変わる気がしているので、今後はコツコツ頑張ろうと思う。











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